廃棄物処理場

メンヘラクソブログ。

『蟲師 特別編 鈴の雫』を観ました。

s-CFIDzMYUsAE-3tw.jpg

s-CFI1LHIVAAA2GhY.jpg

観てきました。

21時ごろからの上映分でした。

時間が時間なので人は少なく、静かに落ち着いてみることができました。

蟲師は静かにみたいですしね。

追記にて『鈴の雫』の感想と作品全体の感想を記したいと思います。

誰もこのブログを見ていないことなどはわかっているのですが、やはりどこかに自分を書き留めておきたいと思うので。

見てから1週間ほどたっているので新鮮な感想というわけにはいきませんが。

文章力がないので伝わらないことも多いですが、一応ネタバレはありますので注意です。


『鈴の雫』とは言いましても、まず上映時間の前半は2014年8月20日に放送された『棘のみち』が上映されます。

『棘のみち』

洞から闇が溢れたならば、ヒトと蟲との境は溶ける。

やがて生命達は”死”を奪われ、

理さえも崩れ去り──在り方を違えた世が開く。

かの道に潜むは禍々しき異形、

或いはヒトがヒトである故に宿した禁忌。

引用:公式サイト

クマドという人物と淡幽の2人を中心に語られる禁種の蟲と記憶や魂に関わる話です。

クマドは代々核喰蟲を追ってきた一族の者で、その先祖は淡幽の先祖である狩房家の者の体内に禁種の蟲を封印しました。

その禁種の蟲は狩房家を代々蝕み続け、今でも淡幽の体内に封じられています。

クマドは幼いころ、核喰蟲を追うために魂を人工の蟲に入れ替えられてしまいました。

それを何度も繰り返し、蟲を追ってきた、という話です。

この話は全体的に暗く、ホラーな雰囲気が漂っています。

これまで淡幽はギンコとの関わりを通して描かれてきましたが、今回はギンコの知らない幼いころの淡幽とクマドを主としています。

記憶が曖昧なのですが、確かギンコがここまで深く他の蟲師と関わりあったのは1期2期通して初めてではなかったでしょうか。

核喰蟲は魂を喰う蟲で、天変地異などを引き起こす危険性があります。

おそらくクマドの一族はそれを防ぐために追ってきたのではないかと思います。

核喰蟲は魂を喰うのでクマド自身がそれに対抗できる所謂「入れ物」になる必要があります。

そのため子供のころにクマド本来の魂を抜き取り、光酒から作り出した人工の蟲を入れておく必要があったのです。

魂(蟲)が入れ替わればもちろんクマド自身まるで別人のようになってしまいます。

クマドは見る物をただ在るものとしか感じず、そこには何の感情の起伏もない。

まるで感じる心を失っているかのように描かれています。

しかしギンコをクマドが助けるシーンなどを見ればわかるのですが、蟲がクマドとして生きてく過程で心のようなものを獲得していってるのではないかと思います。

『海境より』ミチヒ『沖つ宮』生みなおしのように人を取り込み、人の形をとった蟲(本人の自覚はなくとも)や魂の輪廻を扱うような蟲はこれまでも登場していますが、

今回のように心を持ち人としてふるまう蟲は初めてではないでしょうか。

これらのことから個人的に蟲師という物語の根幹に触れつつ、新しい事実や可能性を見ている側に示しているのがこの『棘のみち』だと思っています。

クマドの魂は確かに何度も何度も入れ替わっていて、恐らくこれからも繰り返すのでしょう。

しかしギンコがクマドの記憶に触れたとき、クマドが幼いころの淡幽と見た、作中で初めて「美しい」と言った景色を見ます。

これは単なる記憶の引継ぎではなく、中身が入れ替わってもクマドとしての何か大切なもの、あるいは人としての本質を意味づけるものは確かに残っているのではないかと感じさせてくれます。

最後に淡幽、クマド、ギンコの3人でお茶を嗜むシーン。

そこで淡幽がクマドに投げかける「例え状況は変わらずとも我々はひとりじゃない」という言葉は、

淡幽も含めたこの3人全員への言葉だと思います。

その辺はうまく言葉にできないのでなんとなくでも察していただきたい。

前半はホラーテイストを含んだ話ですが、後半は苦しみの中にも希望を見せる、優しさを含んだ話になっています。

クマドの幼少期など全体的に暗い色彩となっていますが、淡幽とのシーンではどのシーンも明るく、美しい風景が描かれています。

この明暗わかれた対照的な風景が、クマドにとって淡幽がどんな存在であるかというのを如実に表しているのではないでしょうか。


『棘のみち』の後はいよいよ『鈴の雫』です。

『鈴の雫』

ヒトから生まれ、ヒトとは成れぬ事を定められたモノが在った。

摩滅しゆく心に灯るは無数の光──己を取り巻く総ての生命という輝き。

往くべき処を悟るモノ、還るべき温もりを示す者。

其々が其々の”生”を全うする刻、かの地に鳴り渡るのは──幽寂なる調べ。

引用:公式サイト

この物語は原作第10巻に収録されている、特別編の日蝕む翳』を除けば最後の物語です。

最後というだけあって、これまでの蟲師の集大成のように思えました。

しかし決して蟲師という物語の世界の終わりを感じさせるものではなく、これからも続いていくその途中なんだと感じさせてくれました。

この物語はカヤという少女がこの世に生を受けたその瞬間、山のヌシに選ばれるところから始まります。

そのとき山に鈴の音が響き渡り、葦朗はその音を聞きます。

その鈴の音はヌシの誕生を知らせるものでした。

人がヌシになる話は第1期の『やまねむる』という話でも描かれています。

『やまねむる』ではヌシを喰うことで後天的にヌシになるというものでしたが、今回は先天的に選ばれました。

ヌシに選ばれてしまったカヤは山にいた数年の間に心をヌシとしての重みに押しつぶされ、

人としての心は忘れてしまっているようでした。

一方カヤの家族、その中でも兄である葦朗は暇をみつけてはこの数年の間、カヤを探すために山へ足を運んでいました。

ギンコは一足先にカヤと出会っており、山と周辺に暮らす人々のためにも葦朗にも「これ以上関わるな」と忠告をします。

しかし山中で倒れていたカヤを見つけた葦朗はカヤを家へと連れ帰ります。

そしてカヤは家族と触れ合う中で、幼いころの記憶や感情を取り戻し、山へ戻った後も人としての自分とヌシとしての自分の間で葛藤することになります。

人がヌシをやるのはとても辛い、というのはこういうことなんだなと理解しました。

人のヌシは短命であり、記憶や心は失われたと思ってもふとしたきっかけですべて蘇ってくるということ。

心を取り戻したカヤは家族の元へと戻りたいと願いますが、山はそれを許してはくれません。

その葛藤は僕らでは到底想像もつかないようなことです。

『やまねむる』でもギンコはムジカをヌシとしての呪縛から解放するために尽力しました。

今回もそうです。

ヌシとは山の理によって決められたことであり、到底人の手の及ぶところではありません。

それでもやはりギンコは諦めず、最後までカヤをヌシという重責から解放しようとしていました。

そのときのギンコの「理と、話しつけさせてもらおうか」というセリフがとても印象に残っています。

あぁギンコはこれまでもこうだったな、と。

理に反したギンコは突如蟲の宴に招かれ(取り込まれ)ます。

蟲の宴は『緑の座』で描かれ、印象的だったのでよく覚えています。

そこでギンコは人に擬態した蟲と対話するのですが、交渉決裂です。

宴とは言いますが、これは蟲の側に連れていかれ、二度と戻れなくなるという危険なことです。

それだけのことをギンコはよくも知らない他人のカヤとその家族のためにやったのです。

これまでの物語でもギンコは他人のために命を懸けることがしばしばありました。『棘のみち』もそうです。

それでも一切押しつけがましい自己犠牲を感じさせません。

ギンコははじめヌシとしてのカヤに出会ったとき、人がヌシに選ばれたことが人が山に生きるものでいられるようで嬉しいといいました。

しかし蟲の宴では「人をヌシなんかにするべきではなかった」といいます。

人をヌシに選んだ山の失態であるからカヤを人間に返してほしいと。

ダブルスタンダードのような感じもしますがおそらくどちらもギンコの本心だったのでしょう。

決して蟲たちを論破するための詭弁ではなかったはずです。

蟲の宴ののち、その場に取り残され自分がどこにいるのかが分からなくなったギンコは二つ目の瞼を閉じます。

第1期の『瞼の光』でも描かれた二つ目の瞼。

それを閉じることでギンコは今いる場所を理解し、戻ってくることができました。

カヤがあちら側へ行って新たなヌシが選ばれたとき、葦朗はまた鈴の音を聞くことになります。

その音は初めて聞いた時とは違ってとても悲しく聞こえました。

カヤがいなくなった後も、葦朗はカヤの好きだった餅を山へ供えに来ます。

ギンコはカヤのために命を懸け、葦朗も2度目の鈴の音を聞いたとき、そして気持ちの整理を付けるまでに様々な思いや考えを巡らせたことでしょう。

しかし2人は再会してもお互いに多くは語りません。

そこにギンコから葦朗たちへ、葦朗からカヤへの思いが表れているように感じました。

『棘のみち』以上にまとまりのない感想になってしまいましたが、蟲師の最後にふさわしい物語だったと思います。

蟲師は万能ではありません。

人間は理の内にあって決して覆すことはできない、しかしただ無力ではなく最善と全力を尽くして生きていく。

そういう人と自然の存在と関係、世界の中で生きることがどういうことか、それがこれまでのエピソードよりも色濃く出ていたと思います。

誰が見ても、蟲師を今までに見たことがなくても、何か感じるところがあるのではないでしょうか。


蟲師』全体についての個人的な感想

蟲師』という作品の主人公はギンコです。

しかし世界はそれぞれの人がそれぞれの物語を紡いでいる。

なのであくまで主人公はギンコなのですが、それぞれの物語の中心人物はその回のゲストキャラクターとなっています。

“蟲”という不可思議な存在を題材としながらも、人と人、人と自然のミクロスケールな物語を描いているため、

見ている側を引き込み、その世界の一員になった感覚を与えるのではないでしょうか。

現実的に考えればありえない話なのですが、いざ観てみるとリアリティさえ感じるほどです。

また、ギンコはこの世界でただ一人だけ洋服を着ていますが誰もそのことを気にしたりはしません。

たった一人だけが洋服を着ていることが当たり前な世界。

そのことが改めて思い返したときにこの物語の不思議さ、異質さを際立たせています。

それに加えて、蟲は得体のしれないものであり普通に考えると『蟲師』は不気味な話になりそうなものですが、

どちらかというと優しく温かな話のほうが多いということ。

そのバランスがよりこの作品に深みを与えていると思います。

1話完結方式でどの話も面白いので、とりあえずどれか1話でも見てもらって、この作品を好きになってもらえればと思います。

今回の映画で蟲師の原作のストーリーはすべて映像化されました。

しかし漆原先生も「不思議なくらいこれで最後という気がしない」とおっしゃっているので、またどこかでギンコたちの物語に触れられればと思います。

s-CFI5k8HUIAARx7N.jpg